私について

早川 忠宏 | Tadahiro HAYAKAWA

スポーツ周りの可能性を動かす スポーツPRプランナー®


 

子どもの頃の私を知る人からすると、スポーツの仕事をしていることには驚かれるかもしれません。なぜなら、運動が得意な子ではなかったからです。それだけに、「スポーツって、何だろう」と考える機会が、人一倍多かったのだと思います。スポーツ好きな父親の影響で、小学生のころから新聞のスポーツ欄や雑誌を読んでいました。スポーツ選手の伝記も大好きでした。高校と大学ではテニス部に所属しましたが、運動能力は乏しく、主な役割は審判。大学時代は、自分の体を使って栄養やトレーニングの効果を試し、毎日練習して、サーブのスピードが10キロ以上速くなったことは自信になりました。また、留学生のチームメートと議論する中で、同じテニスでも多様な価値観があることを学びました。

 

スポーツの仕事をしようと決めたきっかけは、大学1年でニュージーランドに短期語学留学した時にありました。ラグビーなどのスポーツ事情について数多くの質問をしたり、日本のスポーツ界についてスラスラと説明する私の姿を見たホストファーザーから「そんなに好奇心があるなら、スポーツ記者になって世界を見てみれば」と言われたことです。プロになると決めたからには誰にも負けない知識を得ようと、都立中央図書館に通って、文字通り片っ端から専門書を読んだことが、考える土台になりました。大学4年の春まで部活動を続けたものの、就職活動との両立には失敗。就職浪人中は、放送局のスポーツニュースのアルバイトで生活費を稼ぎました。記者の採用試験では、のべ9回最終面接で落ちましたが、第一希望の会社でスポーツ記者として、キャリアをスタートすることができました。

 

1997年から大阪でサッカーや高校野球、アメリカンフットボールなどを担当して5年、東京ではテニスや卓球、そのほかの主にオリンピックを目指す競技とその統括団体を取材して8年。日本一を決める大舞台や、ウィンブルドンやオリンピックなど世界最高峰の現場に立ち、選手の戦いぶりや指導者の思いを文章で表す毎日、スポーツ界の新しい動きや問題を取材する日々には重圧と充実感がありました。その中でも、オリンピックの時にしか注目されないようなスポーツをどのように知ってもらうかを協会の人から依頼され、取材の仕組みや広報戦略を考えて助言し、その結果、世の中の見方が変わったことには大きな喜びがありました。次第に、外から見て批判することが大事な記者の立場と、もっと直接的に変化を助けたい、という自分の資質のギャップに苦しむようになります。

 

大きな舞台も数多く経験させてもらい、会社内での自分の将来を長い間考えた末に、広報へのキャリアチェンジを決断しました。会社を辞めるのは、一大決心です。「海に飛び込んだら、泳げるようになるしかない」。そんな思いだったことをよく覚えています。スポーツマネジメントを学ぶためにアメリカへ留学する準備を進めていたころに、雑誌の記事で知ったのがブラインドサッカーでした。メダルを取ったり、強くなる、勝つだけがスポーツの価値なのか、と思っていた頃に、ブラインドサッカーの価値を世の中に役立てると公言して突き進む松崎英吾事務局長と意気投合し、関わるようになりました。

アメリカでは、毎日図書館で何時間も勉強し、英語でのディスカッションやプレゼンテーションを重ねて修士号を取得するとともに、2年間で73の現場に足を運んで、様々な事例を自分の肌で感じてきました。現地で働く機会を求めて160通の応募書類を出しましたが、全敗に終わり、悔しい思いで日本に帰りました。留学から帰国後も何カ月も経験を活かす場が見つからなかった中、日本ブラインドサッカー協会から、初代広報担当として、広報体制を一から築くチャンスをもらいました。狭い事務所に4人しかいなかったような時代から、ビジョン、ミッションを大事にして組織が成長していく時期に共に歩み、スポーツニュースとして扱われるなど5つの目標をすべて実現。認知度を高め、関わる人を増やし、障がい者への見方を変えたと評価を受けました。スポーツの枠にとらわれず、障がい者理解、社会貢献、教育、研修、ビジネスなど幅広い切り口で広報を展開したことから、他の業界でももっと伸ばせるのではないか考えて、PR会社に転職しました。

 

新しい舞台では、部下を率いて、商社、システムサービス、エネルギー、不動産、医療機器、化学などの上場企業や外資系企業を担当し、企業広報および危機管理広報の体制強化に携わりました。役員らを対象にしたメディアトレーニングでコーディネーター兼講師を務めたほか、危機管理広報マニュアルも作成しました。その後、世界トップレベルの外資系PR会社で働く機会も得て、日本人と外国人を交えた環境での仕事や広報戦略の世界展開にも携わりました。

成果を残すことはできていたのですが、スポーツが中心にないという毎日は、「本当に、これでいいのか」と、自分の意欲を持て余しているような感覚になりました。また、スポーツ関連業界を離れて客観的に見たことで、メディアの注目が大きい業界でありながら、広報体制づくりや人材育成は遅れていることも感じました。スポーツについて深堀りして考え続け、ビジネスにも携わった経験のある自分だからこそ、スポーツの価値を尊重しながら広報PRをしていく、そういう形でお客様の成長に伴走したいと「スポーツPRプランナー」として独立しました。