代表紹介

SPORTS PR JAPAN スポーツPRジャパン

代表紹介

FOUNDER

スポーツPRプランナー ®

早川 忠宏 | Tadahiro HAYAKAWA

スポーツPRプランナー®
Sports PR Japan 株式会社 代表取締役

スポーツ記者を13年経験した後、米国留学を経て広報に転職。日本ブラインドサッカー協会広報(初代)、PR会社2社でコンサルタントを務める。メディア、団体、PR会社と広報PRに関わる3つの異なる立場での経験を活かすべく、スポーツに関わる広報PRを専門とする会社を2018年に創業。界隈では多少知られているが、その殻を破り、誰からも一目置かれる組織にすること、社名(団体名)を言ったら、「ああ!」と当たり前に言われるところまで、スポーツビジネスと広報PRを支援している。

1000人を超えるスポーツ関係者に話を聴いて書いてきた記者時代に、所謂“マイナー”スポーツも担当し、いかに知ってもらうかを試行錯誤していた。将来性豊かな選手など、光り輝くものをいち早く見つけ、さらに伝え方を創意工夫することで大きな成果を挙げた。

2013~2015年まで務めた日本ブラインドサッカー協会の広報担当としては、多彩な切り口をメディアに提供しながら広報PR体制を一から築き、競技や団体の認知度を大きく高めた。
「スポーツを手段として、明るく楽しく課題が解決すれば、皆が豊かに生きられる世の中になる」との信念を持ち、成長を強く望むスポーツビジネス企業やスポーツチーム、競技団体、スポーツ関連NPO法人などからの依頼が多い。

なぜ、この仕事を?

STORY

野球とテニス、自己鍛錬に夢中になった少年時代

気づけば、私のスポーツへの偏愛は、幼少期に生まれたように感じます。

幼少期から野球観戦のために両親と足繁く球場に通いました。当時の私のヒーローは、巨人の王選手。スポーツ選手の伝記やスポーツ新聞、野球の技術書を夢中で読み漁る少年時代を過ごしました。

高校に進学後は、硬式テニス部に所属。テニス初心者でしたが、練習の努力が実りレギュラーを獲得しました。愚直に自己鍛錬を続ける楽しさに気付いたのは、この頃でした。

人生に転機をもたらしたホストファザーの一言

マスコミ系の職種に憧れのあった私は、東京の大学進学を目指して、一年間の浪人時代を過ごします。その後念願叶い、国際的な環境が魅力の都内大学に合格しました。
ここで、「スポーツ」が私のライフワークの中心になるきっかけとなる出来事が起こります。

大学1年生の夏休みに、ニュージーランドへ短期留学をした時のこと。私がスポーツに関する質問に英語でスラスラと答える様を見たホストファザーが、「そんなにスポーツへの好奇心があるならば、スポーツ記者になって、世界を回ればよいのに」と、一言。

それまで趣味として楽しんできたスポーツと、漠然と憧れていたマスコミ関係の仕事が結びついたのはこの瞬間でした。「スポーツへの探究心や興味が仕事になるなんて、最高じゃないか!」と、心が奮い立ったのを今でも思い出します。

「もったいない」スポーツ界を広報の力で支援したい

大学卒業後は、スポーツ記者として通信社へ入社。約13年間のスポーツ記者生活では、高校野球やサッカー、東京本社に移った後は国際総合大会、テニスの四大大会など大舞台の取材も経験しました。

記者生活も10年ほど経った頃、日本卓球協会などから広報活動について相談を受けることがありました。今でこそ卓球は人気のあるスポーツですが、当時は、世界選手権や国際総合大会の期間中しかスポットライトが当たらず、注目度が低い競技だったのです。

相談を受けた私は、過去の取材で得た他のスポーツの知見を生かし、報道陣と協会の間を調整したり、現場での取材のやり方を整え、担当者に対して勉強会を実施するなど、広報戦略をアドバイスしました。すると、世の中の卓球の報道が質量ともに向上。それらが端緒となり、テレビ視聴率も上がるなど世間の注目度が高まりました。

面白いのに注目度の低いスポーツや、ビジネス化がうまくなされておらず、存続が危ういスポーツに対して「もったいない」と感じ始めていた矢先、日本卓球協会への広報戦略支援の成功体験を経験。記者という立場ではなく、より直接的にスポーツ業界の支援ができないかと考え始めました。
そこで、スポーツビジネスを学ぶためにアメリカへの留学を決意します。

スポーツビジネスが息づく米大学院で、修士号を取得

スポーツビジネスを学ぶために、米国の大学院の門を叩いたのは2010年のことでした。

大学院の授業は、ケーススタディ型の授業が多く、例えば「A社とスポンサー契約をするにはどんな提案をするべきか?」という具体的な内容を、愚直にプランニングします。理想論ではなく、理論や根拠に基づいた実践的アイディアを出すことが、スポーツビジネスにおいて非常に重要だということを学びました。

また、2年間の学生生活の間に73ものスポーツの現場に足を運び、アメリカのスポーツにまつわる実情を肌で感じたのも良い経験でした。
アメリカではローカルな子供の水泳大会でも、数ドルの入場料を支払って観戦するのが一般的なのには驚きました。このようにスポーツビジネスが社会のなかで当たり前に息づいている状況を目にできたのは、私にとって大きな学びと希望になりました。

「経営に貢献できる広報」で、異例の動員数を記録

2012年に修士号を取得して帰国した後は、広報チームリーダーとして日本ブラインドサッカー協会に参画しました。その2年後には、東京での世界選手権開催が決定していたこともあり、広報にまつわる体制を整えていきました。

その甲斐あり、障がい者スポーツ大会としては当時異例の、9日間で約6,300人の有料入場者数を動員。また、ブラインドサッカーを様々な切り口で売り込み、その前後で50週以上連続でメディアに取り上げられることに成功しました。記者としての経験があったこと、留学時代に学んだ「経営に貢献できる広報」という観点を持って仕事に臨んだことが、功を奏したのだと思います。

広報活動にやりがいを感じ、スポーツという枠を飛び越えて広報業務をしたくなった私は、2015年に広報コンサルティング会社に舞台を移しました。部下を率いて企業広報のコンサルティングを行ったり、グローバル環境での広報活動の機会を得たりと、スポーツ以外の分野で広報のプロたちと協働しました。

スポーツと他の分野が、当たり前につながる世界をつくりたい

その後、改めてスポーツ業界を中心に据えた広報活動支援を行うため、2018年に弊社を設立するに至ります。

私が、「スポーツの力」を信じるにあたって、忘れがたいシーンがあります。

ブラインドサッカー協会時代に、コミュニケーション課題を解決するための研修を小学校で実施したときのことでした。

白杖を持ったブラインドサッカーの選手たちと学校に向かうと、通学中の子どもたちは不思議そうな目をこちらに向けてきます。しかし、視覚障がいを持ちながらも華麗にサッカーをする選手を見ると、子どもたちの目線はヒーローを見る眼差しに変わります。研修の休憩中に子供たちが選手の周りに集まり、「遊ぼう!」と誘っている様子もよく目にしました。

例えば、「ハンディキャップを抱えた人とのコミュニケーション」と銘打った授業をしようとすると、堅苦しい問題だと考える方が多いと思います。しかしスポーツを媒介することで、目が見えること・見えないことを軽々と超えたコミュニケーションが楽しく成立し、あっという間に人の気持ちや行動が変わる事象を目の当たりにしてきました。

スポーツは様々な垣根を超えていくことができるもの、そして様々な分野をつなげていくことができるものなのです。

私は、スポーツが持つ価値を信じています。
今後もスポーツと他の分野が当たり前につながる世界をつくるために、愚直な実践は続きます。

(インタビュー: 市川みさき)

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